色々と便利な池袋に住んでみたい!

混沌ともいえる昭和期

かつては芸術家が多く住んでいたことでも有名だった

池袋が現在のように発展した街並みになるまでの歴史は長い道のりだった、元々鉄道駅に関しても建設予定がなく計画していた目白が反対の抗議を受けて断念した結果、というのが歴史のあらましとなっている。その後も当初は池袋駅ではなく、『池袋信号所』という単線での名称がその原点だった。その後利用者も増えていく中で池袋に対しての見方も変化をきたすようになり、発展対象として開発事業が少しずつではあるが執り行われていった。

そうした中、池袋のもう1つの顔として有名なのが『芸術としての街』という印象だ。そもそもこの印象が生まれたきっかけについては昭和初期においてこの地には数多くの画家や詩人といった人々が在住していたことでも有名だ。そんな街並みから誰が言ったかは定かではないが、フランス・セーヌ左岸の芸術家の街に例えられた名称、『池袋モンバルナス』と呼ばれていた。この異名の通り昭和10年ごろにはあちこちにアトリエ月の借家が散見されていたほどで、芸術家として活動するなら池袋適した街はないだろうとまで言われていた程である。そんな住宅も芸術家にしてみれば十分すぎる間取りだった、当時の住宅状況を考えても広すぎるほどだった。15畳のアトリエに四畳半の居室となっており、当時の一人暮らしとして考えてみれば断然に広いほうだ。それでも限られた人しか入居できないだろうということも安易に予測することが出来るため、誰でも気軽に入れたとは言いがたいだろう。

そんな池袋モンパルナスと呼ばれた街並みは、現代においては当時の様子を感じられるさまは残されておらず、静かな街並みだけは感じられる。そんなかつて芸術家の街として知られた地域の名残となっている物は、当時築かれていた桜並木の桜が現在までに1本だけ残されているだけとなっている。昔のことを知りたいと思っているなら当時の古い写真などを掘り起こさなければならない。かつて存在していた芸術家達の街は、現在では池袋から少し離れた閑静な住宅街となっている。

場末と暴力の街へ

昭和初期、その頃はまだ池袋のイメージは非常にクリーンなものだった、芸術家達の思惑や野心といった感情が交錯こそしていたが、それは将来に対して前向きな印象で飾られていた事は想像できる。しかしそんな池袋にかつて存在していた芸術家としての街はいつしか失われ、代わりに世間の闇を一心に集約したような状況に様変わりする。その始まりとなったのはやはり戦後直後が一番影響という爪痕を残してしまった。この頃の人々は敗戦という二文字によってどうしようもないドン底に叩き落されていた。GHQによる期間限定の統治は人々の心を疲弊させていき、外国人からの絶え間ない誹謗中傷と暴力、そして売春といったような事を行わなければ生きていけない時代でもあった、苛烈な時代が訪れてしまったことで池袋もその波に流されてしまい、いつしかこの地で様々な表沙汰には出来ない取引などが平然と行われるようになっていった。

池袋といえばという質問において答える人も多いと思う、『かつての闇市現場』という印象がある人は多いだろう。そもそもどうして池袋がそんな闇市を行う場所としての側面を持つようになったのか、それは鉄道に関係している。もちろん戦後に朝露の進駐軍が駐屯したことも関係しているが、その頃には既に山手線を始めとした主力鉄道が集中しているターミナル駅だったことが大きいと言われている。駅が大きいことで物流の流れも池袋で一定の経路を形成し、そしてその中で主に米軍の闇物資が集められるようになっていったというのだ。闇市をすればそれだけ処罰の対象となってしまうのはもちろん覚悟してだが、その頃の日本人としての生活は想像に絶するものだったからこそ、背に腹は変えられない状況だったために、手を染める人が増えていったと見るべきだろう。

闇市が出始めたことで、池袋界隈では飲み屋が店として繁盛し始めると、暴力も絶えない地域として見られるようになって行く。玄人筋の人間が増えてしまい、その当時の治安も明らかに一般人からすれば近寄ってはいけない街として見られるようになるまで時間は掛からなかった。そんな闇市が掃討されたのは昭和37年のこと、それまでは当然のように行われていた裏取引の現場として、東京の中でも生粋ともいえる立ち入り禁止エリアとして見られていた事は否めない。

外国人が多く住む地域としても

池袋には他にもこんな印象を持っている人も多いと思う、それは外国人が沢山住んでいるという点だ。かつて昭和期において闇市として栄えていた池袋だが、掃討された後は地域としてもイメージを回復させるのに必死だった。しかし元々昭和中期頃には拘置所や墓地、さらに孤児院といったものまで存在していたため、マイナスイメージを払拭するまでには街そのものを作り変えなければならなかった。その後何とか普通の街並みにすることは出来るようになったが、同時にその周辺に存在していた旧日出町地区には戦前から木賃アパートが密集していた地域としても有名で、日雇いといった地方労働者には好まれていた住まいが集中していた。

それも1980年代頃になると空室が目立ち始めるようになり、そこへ出稼ぎできたアジア系外国人などによって利用されるようになっていったことで、池袋には外国人が集中する街として印象も持っていく。集中していたこともあるが、やはり現代でもこの地にはネガティブな印象を持っている人がいるのは否めない。それを知っているからこそこの地域には住みたくないと考えている人は多いはず。池袋の歴史を紐解いていく中で語られる史実において、負の部分といわざるを得ないものなのは覆せないだろう。